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No.3「ケガに打ち勝った【プロ意識】」

 スポーツドクターコラム

2004/03/20

プロ意識



サンフレッチェ広島の前進、マツダサッカークラブ時代から在籍し、長くお付き合いさせて頂いている風間八宏氏(桐陰横浜大監督・サッカー解説者)。
高いプロ意識とリーダーシップでJリーグ2年目の1994年第1ステージ優勝に導いた初代キャプテンです。  

彼は筑波大卒業後ドイツに渡り、同国のプロリーグであるブンデスリーガでプレーしていました。その彼を当時日本リーグの2部に降格していたマツダが1部復帰を目指して88年(昭和63年)に獲得しました。  彼のマツダでのデビュー戦は、住友金属(現鹿島アントラーズ)戦。
しかし劣悪なピッチと相手選手のラフプレーで足首を捻挫してしまいます。しかも主審の理不尽なジャッジから警告2回による退場処分も加わりました。  さらに県内のアマチュアチームとの練習試合で相手に思い切り左足を踏まれてリスフラン関節(足の甲にある関節)を捻挫。そして96年の退団まで戦い続けた右ヒザ関節半月板損傷など、Jリーグ発足以前から、幾度とケガに悩まされ続けてきました。  特に右ヒザについては、一時は記念すべきJリーグ開幕戦に間に合うかどうかという状態でした。度々関節内に注射をしたり、リハビリをしたりと、本人もトレーナー達も一生懸命頑張ったので、当日スタメン出場を果たします。そして開始1分、Jリーグでの日本人ゴール第1号をマークしたのです。  

風間氏がケガと闘いながらチームを引っ張ってこれたのは、やはりサッカーの本場ドイツで身につけたプロ意識だと思います。結局彼は国内では手術は行わず、96年の退団まで右ヒザの故障と上手に付き合いながらプレーを続けていたのです。 ケガ以外でも「ちょっと風邪気味かな?」と思ったらすぐに注射をしたり点滴を打ったりと、私の病院を訪れたり、もしくは私が出向きました。この体調管理への不断の努力があったからこそ、94年の第1ステージ優勝などの栄光の歴史が生まれたに違いありません。  

第1ステージ優勝の翌年5月に当クリニックを開業しました。風間氏もすぐに来院し、しばしば訪れています。スポーツ医学が当時の日本よりはるかに進んでいるドイツ並みにリハビリ施設の充実も目指していた私は、ドイツでプレーした風間氏からもいろいろ情報をもらいました。  開院した時彼は「これぐらい充実していれば申し分ありません」と太鼓判を押してくれました。だから現在まで自信を持って診療とリハビリに尽力できたと思い、とても感謝しています。





スポーツドクターコラムは整形外科医師 寛田クリニック院長 寛田 司スポーツ医療スポーツ障害症状治療について分りやすく解説します。

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