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スポーツドクターコラム
No.4「アジアの大砲」
2004/03/30
アジアの大砲
私がチームドクターを務めてきた中で最も印象の強いケガは、やはり1994年Jリーグチャンピオンシップ第2戦(12月2日国立競技場)での初代エースストライカー高木琢也氏の左足アキレス腱断裂です。
対戦相手はヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)でした。
後半12分にピッチを走っていた高木氏が突然転倒して、うずくまったまま立ち上がりません。ベンチから見ていた私達ドクターやトレーナーは何が起こったかすぐに分かりました。
彼は優勝した第1ステージ終了後から左脚アキレス腱周囲炎を起こしていて、チャンピオンシップ本番では広島での第1戦から最悪の状態でした。
しかし本人が出場を強く希望し、年間王座を懸けた最後の大一番だったので出場に踏み切ったのです。
この年は年間42試合、Jリーグ元年の93年は年間29試合に出場。さらに日本代表としても広島アジアカップ、W杯アジア地区予選、広島アジア大会に出場。188cm・83kgと恵まれた体のエースストライカーは、国内外のDFから容赦なく削られ続けてもびくともしません。
サンフレッチェに入団する直前の英国留学で培われたサッカー観もそうさせたのでしょう。 しかし試合が終わると彼の脚は晴れ上がり生傷も絶えませんでした。そのダメージが長年蓄積していくうち、アキレス腱に負担がかかっていたようです。
悪夢の試合からまもなく行われた手術は、高木氏の希望で福岡の病院で行われました。その2年前広島でのアジアカップ優勝直後彼が軟骨の一種である「有痛性三角骨障害」の手術を受けた病院です。
95年の年明けにその病院を退院した後のリハビリにつては、チームを挙げて取り組みました。 このとき私はまだ勤務医だったので、高木氏はアキレス腱が十分つながるまでは以前勤務していたリハビリテーション専門病院に95年1月から入院しリハビリを行いました。 そして3月頃からは次の段階としてバクスター前監督の紹介で、スウェーデンに渡ってリハビリを続けました。
私が95年5月に当院を開業した頃、高木氏は広島に戻っていました。当院でリハビリに励んでいた彼は、待合室やリハビリ室で声をかけられたお年寄りや学生と談笑したり、サインに応じるようになりました。6月には練習に合流しています。
高木氏は第2ステージ途中からチームに復帰し、10月4日のセレッソ大阪戦で326日ぶりとなるゴールをきめました。その年末からの天皇杯では4試合連続ゴールと完全復活し、チームを準優勝に導いたのです。
スポーツドクターコラムは整形外科医師 寛田クリニック院長 寛田 司がスポーツ医療、スポーツ障害の症状、治療について分りやすく解説します。